「当たり前」という言葉の捉え方。

●妻は、子どもに、「(大人の)当たり前」を求めすぎ。

 

実際の「子どもの当たり前」はまだ逆。

 

してほしいことをしないのが「子どもの当たり前」。

してほしくないことをしちゃうのが「子どもの当たり前」。

 

子どもが思いどおりにいかなくても、まずはそれが「子どもの当たり前」と思って、まずはしからないで諭してあげてほしい。

逆に子どもが「(大人の)当たり前」をやったら、当たり前と思わずに、褒めてあげてほしい。

 

そうやって子どもは、「当たり前度」を上げていくんだと思う。

 

「当たり前度」という言葉があるけど。

子どもの「当たり前度」はまだ2才児程度。「大人の当たり前」とは違う。そして、子どもの「当たり前度」を引き上げていくのは親。

 

「当たり前度」はしかっても引き上がらない。だって、子どもからしたら、しかられている行動がまだ「子どもの当たり前」だから、しかられている理由がまだ心の底から理解できていない。仮に、しかられる理由がないのにしかられ続けて常識を身に付けても、それは歪な常識。褒められる理由があって褒められて身に付く常識こそが、常識的に言って正しい。そーゆーことに気付いてくれ。

 

●子どもに自分の感情を伝えないことは、大きな育児の失敗になると思うから、事前にそれを防ぎたい。

子どもが自我を形成する幼少期は、親が最も自分のことを考えて学ばせてくれる最も身近な存在。そんな親が、子どもに客観的な感情を学ばせないと、子どもに客観的な視点を育ませることは無理だろう。要するに、親も含めて、他人の気持ちを理解できなくなっても仕方がないということ。

子どもがした行動に対して、親という他人がどう思うか。単純に言うと喜怒哀楽。それは幼少期に親が子どもに言葉にして伝えて教えること。

今の妻は喜怒哀楽の怒しか伝えていない。怒る以外にも、きちんと嬉しい、悲しい、楽しいという気持ちを言葉にして子どもに伝えないと。今の一番の教師は母親なのだから。